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法学部で広がる未来の自分の可能性                    ~第14回~スポーツを通して見えてくる生きた「法」の姿

皆さんこんにちは!今回の「法学部で広がる未来の自分の可能性」では、流通経済大学の法学部で開講されている「スポーツと法」という科目に注目してみたいと思います。スポーツと法というと一見関係がないようにも思えますが、そこにはどんなつながりがあるのでしょうか?また、この授業で学ぶことによってスポーツと法についてどのようなことを知ることができるのでしょうか。講義を担当する法律学科の西島先生に詳しくお話をお聞きしました。スポーツが好きな人もそうでない人も、西島先生のお話をぜひお聞きいただければと思います。

―――こんにちは。今日は、先生ご担当の「スポーツと法」では、どんなことを学ぶのか教えてください。
西島訊いてくれてうれしいですね。その前に、「スポーツ」と「法」がどんなふうに関係するか、イメージがありますか?

―――えーと、スポーツ中に事故が起こって、損害賠償とか、あとは運動部の暴力事件とかでしょうか…
西島そうですね、「事故」の問題が出たのは「いい線」いっています。「暴力事件」というのは、まともな運動部ではありえないことだけど、残念ながら一般的には起こりうることですね。それは「スポーツと事故」の問題の一種といってもいいけれど、運動部に限らず、閉鎖的な集団で起こりうることかもしれません。

―――運動部で暴力事件が起きやすいといったことがあるのでしょうか?
西島必ずしもそういうわけではないけれど、一つのパターンとして、集団のなかで「同じ価値観を持つべきだ」という「思い込み」が激しいときなどに、それになじめない人(たいてい「弱い立場の人」)に対する、集団的な「抑圧」のヒドイ場面として暴力事件が起こることはあります。ある意味でイジメのヒドイ場合といってもいいでしょう。

―――人の「集団」というのは、そういう問題を常に抱える可能性があるということですね。そして、集団でスポーツをする場合にも同じ問題が起こりうると…
西島そういうことです。「スポーツ」は、本来、肉体や精神を鍛える「スポーツ」を志す者同士、お互いの価値観や人間性を認めあって(要するに、いろんな仲間と一緒に汗をかいて)、お互いの「生きる意味」に「共感」しあえる最良の場の一つのはずですよね。なので、スポーツの指導者を志す人は、そういう「集団的病理」のリスクも意識しながら、それとは本来真逆であるはずの「スポーツの本来の精神」を後輩たちに伝えることが大事だということが言えますね。

―――「スポーツと法」では、スポーツに関連するそういったリスクについて学ぶことになるわけですね。
西島そうそう、本質に迫ってきましたね。ただ、少し補足すると、仕事でも、スポーツでも、普通の生活でも、人が積極的な活動をすること自体、何らかのリスクを伴うものです。けれども、そのリスクを恐れていては、何もできなくなる。スポーツなら、それに伴う法的リスクを予め具体的に知り、それに向き合って、それを予防し、コントロールすることを学ぶことこそが大事ですね。

―――スポーツの指導者になろうとする人はもちろん、スポーツをする人は学んでおくべきことですね。

西島そうですね。また「スポーツと法」に関連する主なテーマとして、たしかに「スポーツと事故」の問題は重要なテーマの一つだけれど、「スポーツと契約」の問題や「スポーツと基本的人権」の問題も意識しておくといいでしょう。

―――それらのテーマについても、もう少し教えていただいてよろしいですか?
西島「スポーツと契約」はプロスポーツ契約に関するものです。たとえば、プロ野球の選手契約などは、「契約」の「公平性」や「公正性」の観点からいろいろ問題を含んでいるので、プロスポーツ選手を目指す人はぜひ「スポーツと契約」について学ぶべきです。そうでなくても、「契約」というものの奥深さを学ぶにはいい素材ですね。

―――ありがとうございます。では「スポーツと基本的人権」というのは、どのような問題なのでしょうか?
西島「スポーツと基本的人権」は、憲法の問題に関わります。国の最高法規である憲法は、国や自治体などの公権力に対し、「スポーツをする自由」を侵害しないことを義務づけ、「スポーツをする環境を整える」ことも義務づけていると考えられます。憲法は「スポーツをする自由」をも守っているのです。授業の中ではそのことの意味を学ぶことになります。

―――え、「スポーツをする自由」が国家権力から侵害されることがあるんですか?
西島「スポーツ」で肉体を鍛え精神を活性化することは、人間の基本的な営みに関わる「人権」「自由」の一種で、「学問の自由」「表現の自由」「信教の自由」とも共通する精神的自由の一種ともいえる面を持っています。ですが、太平洋戦争中のような特殊な事情の下でですが、野球などは敵国アメリカ由来の「敵性スポーツ」として国家権力により禁じられた歴史があります。そのことの意味は、単に自由にスポーツができないというだけではなく、スポーツと平和の問題スポーツと政治の関係など、いろんな問題がからむけれど、社会が変な方向にすすむとそんなことも起こりうることとして学ぶ必要があります。

―――なるほど、国家権力というのは、その時々の都合によっては普段では考えられないような変わり方をするものなのですね。
西島だからこそ憲法は、人権侵害をしないように国家権力にタガをはめ、主権者である国民が民主政の仕組みを通して国家権力を監督できる仕組みを作っています。もちろん、その仕組みが十分に機能するかどうかは、国民の努力次第ともいえますけどね。

―――スポーツをする自由が基本的人権として保護されるというのは、とても重要なことだと実感できました。
西島それはよかった。ちなみに、国家権力によるスポーツの自由の侵害とは別の場面でも、スポーツと人権の問題は密接に関係しているんですよ。たとえば、オリンピックなどのスポーツの祭典で、選手から人種差別や人権侵害に対する批判のメッセージが発せられることが多いでしょう。オリンピック憲章の最初の「根本原則」の第3項でオリンピズムの目的は「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すことにある」とし、第6項では人種、性別、言語、宗教、政治的意見または、出身国や社会的な身分や財産などによって「いかなる差別をも伴うことなく」権利や自由の享受が保障されることが明記されています。それによると、スポーツ選手が人権侵害に対する批判をオリンピックでアピールすることは、それが大会の進行を妨げることのない理性的な方法であれば、むしろオリンピック憲章の精神にかなっているといえます。どんな政治的立場であっても人権を守るためのアピールは普遍的なものであり、それを特定の政治的立場に偏重した「政治的中立性」を害するものと混同してはいけない、ということにもなります。

―――なんだか、奥深くて、広い問題ですね。でも、「法」を学ぶというのは、良いことも悪いことも含めて、僕ら「人間の営み」の深いところに関わることなんだということを感じました。そうしたことを、きちんと学ぶこと自体が「カッコいい」ですね。
西島そう感じてくれると、僕も大変うれしいですね。「法」をキチンと学ぶことは、人が生きていくうえで、イヤでも向き合わないといけないことに、予めキチンと向き合い、「よりよく生きていく」ための「助け」にすることだと思います。また、現在の国や社会の基本的仕組みをより深く知ることができます。「楽しい」だけでは終われない学問分野だけれど(人間や社会を扱う以上、程度の差こそあれ、すべての学問に共通するはずです)、それをキチンと学ぼうとすること自体「カッコいい」ことですね。

―――西島先生、本日はどうもありがとうございました。


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